多様になった社会でも他者の対する想像力を持ちたい
巷ではDaiGoが生活保護者やホームレスの命を軽視するような差別的発言をしたということで炎上している。
メンタリストDaiGo「ホームレスの命はどうでもいい」と差別発言。炎上後も「辛口だから」と言い訳(篠原修司) - 個人 - Yahoo!ニュース
こういった発言はこれまでも度々問題になってきた。こういった思想が論外であることは上の記事たちを見れば簡単に理解できる。
今回の炎上で僕が感じたことは、他者への想像力もを持つことが如何に重要であるか、そして難しいか、だ。
DaiGoが生活保護者やホームレスへの差別発言をしてしていまった理由は、想像力の欠如だろう。生活保護者やホームレスの人々がどのようにその状況に置かれることになってしまうのか、なぜ中々抜け出せないのか、またなぜなぜ支援を行うのか、について想像が出来ていなかったからだろう。*1
今回、このように大炎上したのは、DaiGoがインフルエンサーだからとかアンチが一杯いるからとかの要因があると思うが、1つには「生活保護受給者・ホームレスへの差別が身近」だからというのがあると僕は思う。
彼/彼女らへの差別的な発言とそれへの反論はネットには溢れているし、心の底ではそのような感情を持つ人は多くいるだろうしで、この問題は結構身近なのである。同じ理由で、LGBTや女性への差別問題は大きく取り上げられる。つまり比較的想像ができるのである。マイノリティの中ではマジョリティなので。
一方で、個人というものが大きくなり多様化していく社会において、他者への想像力をもつということは意外と難しいのではないかと思う。なぜなら、個々人の境遇だったりを想像しなければいけないから。
自分と共通項を持たない人間と接することは面白いが基本は骨が折れる。行きつく先は無関心だろう。最近よく聞く「人それぞれだから」という言葉は他者を尊重している訳ではなく、ただ無関心に起因したものである場合が多いとも僕は思う。
でも難しくても他者に対する想像力をもって生きたいね。
(蛇足)
人々の共通項として昔から大きな役割を果たしていたのは宗教だろう。日本においても宗教が流行る時代がまたくるかもしれない。*2
あと日本においては神道仏教よりも、小中学校での義務教育が宗教を担ってきていると勝手に僕は思っている。(いい意味で)